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チルル・パワーストーンの声を聴く石屋さん

チルル

優しさの本質

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優しさの本質

雑談

こんにちは!

チルル犬とお散歩から帰ってくると、同じマンションのご婦人が、沢山の荷物をやっとの思いでエントランスに辿り着いたらしく、一息もらす場面に出逢いました。

(荷物持ちましょうか?)と話しかけようか、少し思案し、「こんばんは」と通り過ぎたのですが、エントランスを入ったところで、立ち止まっているのが目に入りました。

思わず、振り返って、
「よかったら、荷物少しお持ちしましょうか?」
と声を掛けたところ、
「ありがとう。大丈夫よ。」
とニッコリされました。

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さて、みなさんは、このエピソードを聞いて、Mumのことを優しいな、と思われましたか?

私は、自分は”まだまだ”だなぁ、このご婦人は素晴らしい人だなぁと思いました。

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初めに思案したとき、何を思案したのかというと、果たして、手を差し伸べることが本当の優しさだろうか?ということです。

結果、頑張れるうちは、自分で荷物を運んだ方が、体力もつくし、自分への信頼にもなるから、手を差し伸べない方が良い、と思ったのです。

でも、結局のところ、自分が一般的に想われているような優しさの概念に反するような行動をすることに精神が耐え切れず、手を差し伸べようとしてしまいました。

ご婦人は、それを、優しくやんわり、キッパリと断ってくれたので、私は、1人暮らしのこの方の人としての強さを感じて魅力的に思いました。

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Yuは、昔よく、こんなことを私に言いました。

「Mumに聞いても、どうせ教えてくれないじゃん」

・・・笑。

勉強で分からないことがあって、私に尋ねても、外堀をまーるく回って、核心を教えてもらえないのです。
時間はかかるし、結局答えは教えてもらえないし、聞くだけ無駄と思っていたようです。

一般的に優しいと評されるお母さんだったら、懇切丁寧に、怒らず回答まで教えてくれるのでしょう。
でも、Mumは、教えないことが、優しさだという価値観を持っています。
手を差し伸べてほしいと言われても、差し伸べない優しさもあると思っています。

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「嫌われる勇気」岸見一郎さんの著書です。

日本人は、嫌われることを恐れ、批判されることを恐れ、他人の空気感や価値観に合わせることで、なるべく傷つかない選択が、”自分が本当に望むことだ”と認識している人が多いように思います。

傷つくことは、誰でもみんな、好きではないです。

でも、それを恐れて選択をすると、他人が喜ぶこと=自分が嬉しいこと、自分が褒められること=他人が喜ぶこと、他人を傷つけないこと=人として正しいこと、常に、自分の選択は他人基準の上に成り立つことになってしまいます。そして、それがデフォルトになると、もはや、自分へフォーカスしているつもりでも、常に、〇〇(自分以外の人)の幸せが自分の幸せだ、という価値観になり、自分が想定した対象の人の感情の起伏や幸せそうに見えるか否かがベースとして成立しなければ、自分は幸せではない、ということになってしまいます。

相手を傷つけない、という基準は、一見、合理的に思われますが、”優しさ”の基準と同様で、その時傷つかなかったとしても、後々傷つく可能性を高めたり、後々困ることになったり、そもそも、相手が傷つくか否かは、自分には分からないはずで、分かっていると思う方が傲慢な気もします。
気を遣うことは美徳のようですが、場合によっては、”こういうことをされると、あなたは傷つくよね”と言っているようなもので・・、それはMumは微妙すぎる優しさで要らないかなぁ。

《どういう自分で在るか》を想うとき、《優しくいること》という漠然とした意識は、このブログでときどき登場するセリフ「お前は、どう在りたいのだ?」の応えにはなっていないかなって、Mumは思います。《優しくいること》という価値観は、優しくする対象を自分以外に想定していることが多く、他人から見て、自分が優しく見えるか、という視点から判断していることが多い気がしています。
もし、意図するとすれば《自分に優しくする》という基準になると思いますが、では、《自分に優しくする》ってどういう選択なのか?という視点は、簡単そうで奥が深いです。
私が初めにやったことは、《自分をもっと好きになる選択》=《自分に優しい》=《自分を大切にする》という解釈でした。
自分をもっと好きになったか否かは、一つ一つの選択をした後、意識さえしていれば、わりと簡単に検証できます。例えば、後悔したなら、その選択は自分を好きになる選択ではなかったのですから、次は別の選択を試してみればいいだけです。ここで大切なのは、例えば、他人に責められたり、他人が自分は傷ついたと言ってきたりしたとしても、それ自体は、《自分をもっと好きになる選択》には何の影響もないことを知っておくことです。責めたり、自分は傷ついたと主張してくる人は、真実あなたのことを想って言ってくれている場合もありますが、それは相手の価値観で判断したことであって、あなた自身の価値観ではないのです。どちらが正しいわけでもないし、どちらが間違っているわけでもない。あなたが選択したことは、あなただけに帰属します。たとえ周りに影響があったとしても、その影響を受けるか否かは相手の選択で、影響を受けると選択したときには、その影響は相手に帰属するものになります。同じネットニュースを見ても、全く影響を受ける人と、受けない人がいるのも、同じ原理かと思います。
周りの言動に影響をされていれば、自分が選択した《もっと自分を好きになる》プロジェクトは、中断されたり、スタートラインに戻るループになります。
自分を信じて、また、周りにいる人も学びの最中できっと世界はベストに巡っていると信じて、自分が何をしたかったのか忘れないようにしたいです。

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Mumの周りには、ハッキリとものを言う人が、とても多いです。

曖昧に誤魔化したり、曖昧に相手に合わせたりしません。それぞれが、自分の考えを言うことで、活発に意見交換が出来たり、仲が深まったりしています。
曖昧に笑ってごまかす人は、”つまらない人”というレッテルで、無害だけど、興味も湧かない対象です。自分が発言しても、反応が薄いか、他の誰かが言ったような模範解答が返ってくると、時間の無駄に思えてきます。
意見や価値観が異なるから、話していて、面白いです。自分に同調してほしいから、自分の意見や価値観を披露するのではなく、こういうideaもあるんじゃない?という軽い気分で言っているので、相手が違う意見でそのままでいいのです。新しいideaを知るために、話をしています。そして、変わり身も早いので、相手の意見がよいなーと思えば、あっけらかんと自分のスタンス変えます。笑

それは、空気が読めないのではなくて、空気は読んでいるけど、敢えてそれに染まらず、自分に嘘をつかず=相手にも嘘をつかない、それだけです。
自分にも相手にも嘘をつかないことが、巡り巡って、信頼につながるし、相手を尊重することにもなるし、何より自分が心地よいことを知っています。

人によっては「あの人は、こわい」と評される人と、私は仲がよく信頼している場合も少なくありません。
実は、とっても優しくて、親切で、嘘もない人なのですが、自分の意見をはっきり言う人は、相手と意見が合わないときには自分の考えを言うので=相手は自分を否定されたと感じ=怖いと評価するんだと思います。業界では、信頼されて面白いと評価されている人であっても、もう少し広げると、怖いと評価されて、社会的には稼いでいて立派と評価される…他人の評価なんていい加減なものなので、それに意味はなく、それを受けて自分が自分をどう解釈するかが大事だよなぁと思っています。

ものごとの本質は、自分の価値観の範囲を超えては理解することは難しいのかもしれません。
そうだとするなら、自分が持っている《優しさ》《怖さ》《丁寧さ》の定義を確定しないで、常に漂うように、広がっていくように、アンテナを張っているのがいいのかもしれないですね。

この世界は、変わらないものがあるとすれば、それは、「変わらないものは何もない」ということだけ。

このブログを書く前のMumと、このブログを書いているMumは、確実に変わっているのです。
メンドクサイって、このブログを書かない選択の先にある未来と、今の選択の先にある未来は、違うのです。

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ところで、学生時代、日本人なら、国語・古文・漢文、習いましたよね。
点数のために、必死で勉強した気がします。

本はよく読むのに、Mumは、国語の物語文の成績が相対的に悪く、一生懸命勉強しました。
そもそも、問題文の解釈が複数あるのに、どうして、ある1つの解釈に決まり、その解釈に沿った回答だけが正解なのか、全く理解できませんでした。

ある日、高校生の時、国語の先生に質問に行きました。
「・・・一般的には、問題文をこう解釈するから、あなたみたいな部分で疑問には思わない」と言われました。
はぁ?なにそれ。と思って、ようやく気が付いたのです。
「そっか、国語って、大衆の大部分がするだろう解釈を当てるゲームなんだ、一番多くの人がしそうな解釈して、その中で一番多そうな回答すればいいのか。」
それからは、物語文でも点数がとれるようになりました。

これって、なんの勉強させられているのかというと、他人の空気を読む練習ですよね。
他人の空気を読んで、正解すれば、あなたは出来る子だって。
国語を勉強すれば、あたかも自分の考えを表現できるようになるのかを装いながら、実のところは、自分の考えを打ち消す練習をしていたっていう・・。
多くの人が考えることや抱く感情以外の感情や解釈は、不正解だよって・・なーんてツマらん科目なんだと思った記憶があります(国語の先生がいらっしゃったら、本当にごめんなさい)。

他人の解釈や考えを想像できることは、とても価値のある能力で、社会をまーるく治めるために必要だと思います。
でも、国語を教えるときに、《空気を読むゲーム》とことあるごとに宣言してからやってほしかったかな。
(古文と漢文は何のために勉強したんだろう・・未だ判らず・・)

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ではでは、

先週末に書き始めたブログで、今朝思い立って、まとめてみました。
なので、何が言いたかったか忘れちゃいました(/ω\)

今週末は、またYuの学校行事です。
Mum的には、学校って週に3日くらいで、あとは好きなことすればいいと思っているので、その行事なんか意味あるんですか?と思っています(爆
運動会とか音楽会とか、その度に練習して、練習して、当日ハプニングないように謎の指導して、子供たち楽しいのかなー?
やってみた、こんなハプニング起こった、こうやって乗り越えた、みんなで笑った、人の心に本当に残ることって、計画外のことのような気がするけどな。
想定の範囲内で、想定外が起こらないように生きることを教えながら、チャレンジしましょう!って、ムリがあるわ・・。
ということで、Mumは、Yuと出かけるときには、如何に偶発性を楽しむかという視点を持つことにしていて、旅行の計画を立てないのも、その一環でもあります。
”不確実性への耐性”と表現することもあるのですが、この耐性が高ければ、物事への解釈が前向きであるように思います。
ま、Mumの思惑に反し、今のところYuは私よりずーーーっと保守的で、周りにも合わせて頑張っています。笑 
そんなものですね、他人は変えられない、変えられるのは自分の選択だけです☺