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チルル・パワーストーンの声を聴く石屋さん

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”悪”を作りたがる人たち

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”悪”を作りたがる人たち

雑談

こんにちは!

もうすぐクリスマスですね。
私は、知人よりジャズコンサートの案内を受けたので、Yuと聴きに行く予定です。

年末は、東京で過ごし、年初は数年ぶりに帰省して、父の老人ホームを訪ねることにしました。
帰省といっても実家はもう存在しないので、ホテル滞在で、仕事の打合せしたり、懐かしい場所に行ったり。
家族の形は様々で、私は血縁者との縁が薄く、傍から見ると《かわいそう》な感じかもしれませんが、生まれる環境は選べないので《しょーがないよね》と思っているので、気が楽です。
生れる環境は選べない・・と思っているけど、生まれた環境は生まれる前にちゃんと選んでいるという不思議。

最近再会した同級生が、とんでも素敵女子になっていて、ご両親のことをヒアリングしました。
『両親には尊敬と感謝しかない』という彼女の両親は、自分ができなかったことを娘にはさせてあげたいと、強要することもなくチャンスは与えて口出ししなかったようです。彼女の《自分を信頼している》安定した感じのベースっぽいなぁと感じました。

経験していないことは、自分には出来ないという話も耳にします。
私はそうは思わないので、とても素敵な彼女の両親を見習っていこうと思いました。
恵まれてる(とご本人も言ってるし私も思う)彼女を羨むのではなく、参考にして自分の人生に取り入れていこうと思えるようになった自分に気が付き、自分の成長を感じた瞬間です。

昨日は、最近結婚したばかりの愛嬌たっぷり女子と、お仕事で会いました。
アフタヌーンティーのチケットをプレゼントしたので、行ったよと報告してくれました。楽しかったと、大興奮で聞かせてくれました。
「私の周りに幸せな人が増えるといいね、私の幸せも増える」というと、ちょっと驚いた顔をするので、
「”運のいい人の近くに入れば、運が良くなる”っていう考えと同じだよ」と伝えると、共感を示していました。

誰かの幸せを一緒に喜べなかった私のときもあったように思うけど、気がついたら、誰かの幸せで自分も幸せに感じられるようになってる自分に気が付いて、自分の成長を感じました。

2022年も、あと少し。
年初に、どんな風になろうって思ったか覚えていますか?(もし覚えていなければ、2023年はノートに書いてみるのは、どうかな?)
自分はどんな風に変わってきましたか?
どんな感情や感覚の多い1年だったかな?
2023年は、どんな風な感情と感覚を増やしていこうかな?

そんなことを、ふんわり思いつつ、残り数日を過ごしてみることも、オススメです。

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さて、今日は《”悪”を作りたがる人たち》について、書いてみようと思っています。

Mumも、”邪気”という言葉を使うし、”善くない”という表現も使うので、私の思うニュアンスが伝わるかな・・と思いつつ書きます。

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”悪”って、作ると、とても便利ですよね。その反対の”善”も存在することになる。

悪魔祓い、悪事に染まる、悪霊に憑かれる、”悪”の定義は、ハッキリしないけど、なんとなく共通っぽい解釈が存在する。

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Mumは、《悪は存在しない》と感じています。

なぜ、そういう風に感じているかというと、高次の存在たちは、お願いしたところで、私たちが”悪”と定義づけるものの存在を消してはくれないからです。

瀬織津姫は、Yuとの縁があり、一般的には”浄化”の存在と思われているようです。
その瀬織津姫は『悪など存在しない』と言っていたことがあり、前にもブログに書いたことがある記憶があります。

高次の存在が、もし、私たちの定義上”祓う”ことを協力してくれたとしたら、その存在が貴方との関係性においては学びが終わっているからです。そして、それは”祓った”のではなく”話を聞いて導いた”のです。

もしろん、強制的に”祓う”ことは出来ます。消す?ぶっ飛ばす?という感じで、相手の意思を無視するやり方です。
それをしている霊媒師と言われる人は居て、私はたまたま、そういう人と親しくさせてもらっていました。
たまたまある日、私と会った後に、女子高生に憑いた悪霊を祓うというので、『ふーん』と聞いて見送ろうとしたのですが、私が慕っている存在が彼女の仕事を”手伝ってやろう”と仰るので、それを霊媒師の彼女に伝えたところ、翌日にお礼のメールが届き『援けてもらい、無事に祓うことができました』とありました。
で、(いちおう、もう知ってるだろうけど)メール来ましたよと援けた存在に伝えたところ、なんだか憤慨(?他に表現が無いので・・)してるような心臓ドキドキな感じがします。『我は必要最小限だけ、援けた。』と言って、『あんなことをしてはいけない』というような感覚が伝わってきて、その様子をみせてくれました。どうやら、祓うのではなく、導こうとしたところを、危険と判断していた彼女は、自分のパワーを足して強制的に祓ってしまったようでした、女子高生にとっては必要な学びだったっぽいのに…。苦しみから放ってあげたなら”善い”ことじゃん?と思う人もいるかもしれませんが、学び終えていなければ、また形と時を変えて同じような経験は与えられますし、霊媒師の方も魂のカルマが生じます。
なので、そのあたりを知っている霊媒師は、表面的なことしか言わず、決定的な援けはしてくれません。それは、踏み込みすぎると自分に還ってくるからです。

彼女のような強制的なことは、殆どの人は出来ないと思いますが、”悪”という概念は、自分が生み出したものだという知識は持っていた方がいいのではないかなと思います。

”悪”と決めてしまえば、悪いのは相手であったり、遠ざけるべきものと区別したり、自分と相手を分離させるideaかもしれず、それって”善い”ideaなのかな?

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悪を作りたがる人は、職業的に利用しているか、自分が変わらない理由にしているか、無意識の理由があって、どんな理由にしても、そこに留まる選択をしている人です。
そこに留まる選択をしている限り、自分が”悪”と定義づけているものとの関係性は継続します。

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”悪”というのは、自分とは違う選択をしているだけの存在で、その存在にも存在する自由があり、経験する自由があることを知っていれば、私たちにも、その”悪”と関係性をもつか否か選択する自由があります。

邪気を過度に嫌がる人が存在します。
でも、邪気は、今の自分より相対的に周波数が低いだけで、自分と被るときもあるレベルです。その範囲内で、相手が関係性を持とうと思ってアプローチしてきている(というか、一緒に学ぶ選択をしますか?という問いかけ)か、たまたま周波数が一致しただけなので、『私は必要ないよ』と伝えるエネルギーレベルで返事をすれば、通り過ぎていく存在です。
エネルギーレベルが波動です。波動は、上下していて、一定ではないので、人はいつも、いろいろな外的エネルギーと交流することで、《ほんとうの自分はなにか》を一瞬一瞬ごとに選択しています。

《邪気があると、咳が出る》そういう人が居ます。
それは、その状態を選択しているだけです。
場合によっては、自分の中にある邪気(相手よりも相対的に自分の中で低いエネルギー)が外に出ているのではないかな。
外から自分の中に入ってくる邪気を防ぐために咳き込んでいると一般的には思われているようですが、エネルギーは身体の周りにもあるヴェールなので、波動が交流しなければ入ってこないんじゃない?喉に到達するって、自分で元々持っていたか、敢えて選んで取り込んでいるか、だと思ふ。。

Mumも、ときどき、夜寝ていたら咳き込んで起きることがあるんだけど、わたし未熟だな・・と思いながら、咳き込みつつ寝ますw
喉風邪とかじゃなく、原因不明で咳き込みが生じたときには、取り込むことになった波動が、もともと自分の中にもある波動だと気が付くことが出来るなぁと、このブログを書いていて思いました。

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《邪気をまとっている》と誰かを遠ざけようとすれば、《邪気》はますます与えられます。

見つめれば逃げ、遠ざければやってくる・・

執着をすれば、遠ざかり、避けようとすれば、与えられる・・

じゃあ、どうすれば良いの?と思われるかもしれないけど、フラットでいることです。

そこに存在するものは、そこに存在する自由がある。自分と同じように。

『そうか、そこに居るんだね、そうか、私は、いくね。」

それは、困っている人に気が付いて気づかぬふりをするのとは違って、
また、困っている人に手を差し伸べるのとも違う、
たぶん、《私も、おなじ道を通ったよ》という応援にも似た優しさなのかもしれないと感じています。

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一昨日、手土産を購入しました。
電車がガラガラだったたので座席に置いていたところ、下車するときに存在をすっかり忘れていました。

向かいに座っていたおじさんが、「忘れてるよ」と教えてくれて、( ゚д゚)ハッ!と思い出したのです。

無事に手土産と一緒にプラットフォームを歩きながら『良かった、いつも人にああいう声かけてるし、巡ったな・・』と心で呟きました。

・・・邪気も、何でも、同じかなって思います。

自分が(期待せず)与えたものが、(期待しない)自分に与えられる。

《悪》を作る人は、《悪》をください

そういうメッセージを宇宙の法則にのせてる、ね?( ˘ω˘ )

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えらそーに、ブログ書いてるけど、Mumもみんなと同じだから(^^)/

理想論を自分で整理してみているのが、このブログ。

書いてみることで、自分である方向性がわかるっていうのかな?

ぼちぼち、マイペースで、気楽にやっていきましょー!

では、またね。